彼を会社につれてって

今でも分からない不思議な出来事。妻がしつこく聞き取り解釈した記述。

自閉症カンファレンス

NIPPON 2002

当事者として講演、その時の目録上に発表した記述です。

山岸 美代子(アスペルガー症候群の本人)主婦・パート 46才

三つ子の魂百までもと申します。私の主人は43才のときアスペルガー症候群の診断を受けました。
当年45才ですが、なるほどことわざ通り、行動療法もものかは、アスペルガー症候群の本質は三歳児の頃よりまったく変わっておりません。本日はそのことをお話しようかと思います。

    

かのドナ・ウィリアムズの元彼は、ドナのサテンのウェディングドレス姿を見て「きれいだ、すごくきれいだ」と言って涙を流しましたが、うちの主人(当時26才)の場合はこうです。

    

「うわぁー、野暮ったい化粧されちゃったねえ、アイシャドーと口紅、まるで昭和三十年代じゃない。よくそんな古くさい色があったなあ。顔まっ白、首まっ黒。あっ!髪もアップにしてない。どうして当初の予定通りアップにしてもらわなかったの。

なぬ『アップにすると老けますよ、それでもいいんですね』って美容師に脅かされた?いいじゃん老けたって。中途半端で似合わないよ。うちのアネキなんか高輪プリンスで変なメイクされそうになったんで『やめて下さいっ、自分でやりますっ!』って美容師払いのけて、自前の化粧品でメイクしたんだよ。そうすればよかったのに。あーあドレスもしわくちゃだし、手抜きもいいとこだな、いったい何考えてるんだ、ここ」 

    

如何でしょう。アスペルガー症候群の知識がある方なら、この花婿発言はテレ隠しでつい、というものでも、気に染まない結婚をぶち壊してやろうという意図からでもなく、ひょっとして「アスペルガー症候群の花婿による実況中継」ではないかと思い当たるのではないでしょうか。

正解です。この正直過ぎるレポートには物証もあり、人はそれを結婚記念写真と呼びます。
十九年前の九月、あの日あの時を振り返り、アスペルガー症候群の花婿はこう述懐します。

「結婚式だろうとなかろうと、誰が何を着ようが、どんな化粧や髪型しようが、そんなのオレにとってはどうでもいいことなんだね、全然気にならない。

ただあの化粧には驚いたなあ、何事かと思ったよ。忙しい中さんざん探し回って、なけなしの予算やりくりしてやっと買ったドレスはしわくちゃにされるし、そりゃないだろうって思ってさ。あまりにかわいそうで、つい見たまま思ったままが口から出ちゃったんだよ」

私がさぞがっかりしているだろうと気の毒に思い、慰めるつもりで言ったのだそうです。

     

      

さて、毎年夏が来て、ニュースで江ノ島の映像が流れると、決まって主人が、「あれは一体どういう事だったんだろう・・・」と、不思議そうに語り出すミステリーがあります。名付けて「江ノ島事件」。

   

   

登場人物はたった五名。各人にいちいち年齢(当時)が振ってありますが、これは書き手の自分がそうだから、読み手もきっと区別し易いだろうという、一方的なサービスです。誤解のないよう申し上げておくと、私は数字に弱く、自慢ではありませんが算数で1をとったことも一度ならずあります。

    

十二年前の夏のことです。主人(当時33才)が外注として設計したオートメーション設備が、納品から無事一年を経て、定期メンテナンスの季節を迎えました。メンテナンスは、夏期休業で守衛さんだけとなった酷暑の工場で、十日間泊まり込みで行われます。

作業に当たるのは主人(当時33才)と、はるばる北国から出張してきた元請けの社員四名で、この四名と主人とは互いに顔なじみです。くだんの不可思議な事件はメンテナンスの最終日に起きました。

   

その日は火曜日で、主人(当時33才)は、ソフトウェア担当のKさん(当時25才)と二人で、早朝からソフトのチェック作業をしていました。気が付けば昼。作業をやめると、S工程部長(当時40才)がこの人は今回の作業チームの実質責任者でしたが独り言のように、主人(当時33才)にこ言ったそうです。

   

「俺たちここにいてもやることないし、江ノ島にでも行ってこようかなあ」

ここでS工程部長(当時40才)が言う「俺たち」というのは、Kさん(当時25才)を除く出張メンバーを指し、ひとりはI工場長(当時59才)、もうひとりは0電気係長(当時26才)です。「ここ」の工場は江ノ島にほど近く、当日は絶好の観光日よりだったそうです。

「江ノ島?いいねえ、行ってきなよ。いい気分転換になるよ。専務(注・登場せず)には黙ってるから大丈夫。六時までには帰って来てね。その代わり、昼飯にはKさんとふたりで、特上寿司一人前二千五百円、食わせてもらうよ。いいかな?」

主人(当時33才)が言うと、S工程部長(当時40才)は、

「ああいいよ。じゃみんな行こうか」

とI工場長(当時59才)、O電気係長(当時26才)を引き連れ、三人で出かけて行ったそうです。

   

さて午前中の作業も終わり、昼食を済ませてKさん(当時25才)と現場に戻ってくると、何と、江ノ島に行ったはずのS工程部長(当時40才)たちが、所在なげに現場にいたのです。

「あれえ、どうしたのみんな!江ノ島に行ったんじゃないの?」

主人(当時33才)は驚いて聞きましたが、S工程部長(当時40才)は無言。

「みんなメシ食ったの?」

と主人(当時33才)が心配してみんなに聞いて回ると、

「ああ、ラーメン食った」

と0電気係長(当時26才)だけが答えます。

「えーっ、オレたちもう寿司食っちゃったよ!今さら金返せないよ」

と五千円の領収書(内税)で宛先は上様(んなこたどうでもいいが)を差し出す主人(当時33才)に、
「・・・・・・・・・」S工程部長(当時40才)は無言。

「ねえ、どうして江ノ島行かなかったの、行きゃあいいのに。なんで、どーして・・・・・」

主人(当時33才)はしつこく、しつこく尋ねます。すると、O電気係長(26才)がそっと近づき、

「やっぱり、まずいんでねえべか、って事になってやめたんだ」

と教えてくれたそうです。

      

      

 今年も主人(45才)恒例の、

「どういうことなんだろう。さっぱり訳がわからない。どうしてSさんたち江ノ島に行かなかったんだろう。まずいって何がまずいんだろう。第一まずいとわかってて、どうして江ノ島に行くなんて言い出したんだろう。」が始まりました。

私(46才)も恒例の謎解きに入るべく「そうだ、お寿司屋さんで、Kさんの様子はどうだった?」思い立って今回初めて聞いてみました。

「それが、うまい寿司でさ!そう言えば・・・Kさんあんまり食欲ないみたいで、『いいんだべか、あんな事していいんだべか』って言い続けてたな。

だからオレ、誰が?何が?どうして?江ノ島のこと?いいじゃん。ずっと休みなしだったんだから、たまにリフレッシュするのも悪くないよ。Kさんだけ行けなくて悪かったね、って言ったんだけど、Kさんくら~い顔でうつむいて『いいんだべか、あの人たちあんな事していいんだべか』って言い続けてたな。」

    

本年度の私の推理

 被害者S工程部長(当時40才)にはかねてより屈託があった。なぜ経営者のM専務(登場せず)は、ヒエラルキー無視の小生意気な外注Y(当時33才)を重用するのか?そもそもなぜこのように手間が掛かるだけで儲からない巨大設備を受注したのか?

元はと言えば外注Y(当時33才)が、新しもん好きのM専務(登場せず)の設計依頼を、外注の気楽さから何の考えもなく引き受けたせいではないか?しかも腹立たしい事に、外注Y(当時33才)は工程部長たる自分に敬意を示さず、かつ無口で何を考えているのかわからない自分の部下K(当時25才ヒラ)をよく手なずけている。

しかしこれらの不満は、M専務(登場せず)の手前、面と向かって発せられる事はなかった。

酷暑の事件当日、折しも世間は休日、工場前の道路はガラガラだった。外注Y(当時33才)に、どうでもよいと思われるチェック作業を宛われたS工程部長(40才)は、出張最終日の安堵感も手伝い、ふと思いついて、就業中にも関わらず「江ノ島行き」をほのめかした。

彼の目論見では、このほのめかしにより、外注Y(当時33才)が、普段のS工程部長(当時40才)には似つかわしくない「江ノ島行き」の申し出や、投げやり若しくは尋常ならざる口調といったものから、すぐに異状を察知、S工程部長(当時40才)の不満に(ハッ)と気づき、おのずと上下関係を再認識、不適切な態度を改め、謝罪するものと思った。

ところが、外注Y(当時33才)はハッと気づいて謝罪するどころか、字義通りに受け取り、事もあろうにS工程部長(当時40才)に向かって「行ってきなよ」などとタメ口で承諾、さらにS工程部長(当時40才)の部下K(当時25才ヒラ)を抱き込み、2人分の特上寿司@二千五百円也を昼食代に要求したが、

これは経営者であるM専務(登場せず)に対する口止め料かと思われ、ついに断り損ねた。S工程部長(当時40才)が承諾するや、外注Y(当時33才)は勝ち誇ったかのように「いってらっしゃーい」と手を振った。

これら一連の行為は、S工程部長(当時40才)の戦略すなわち、外注Y(当時33才)が当然するであろう「江ノ島行き」に対する子供っぽい抗議に対し、年長者らに対して当然とるべき礼儀の欠如を指摘する、といった形でのカウンター攻撃に移行するを踏みにじるものであった。

混乱し、引っ込みが付かなくなったS工程部長(当時40才)には、出かけるフリをする以外、選択の余地がなかった。もともと本気で行く気はなかった上、土地勘のないS工程部長(当時40才)は、車中、同行のI工場長(当時59才)、同じくO電気係長(当時26才)らになだめられ、また時分時でもあった為、近所の寂れたラーメン店にて、一杯二百五十円也のラーメンをすすり込んだが、その不味さと言ったらなかった。

その後現場に引き返して来たが、折しも寿司店より戻ったばかりの外注Y(当時33才)に発見され、しつこく理由を尋ねられる。さらに追い打ちをかけるように、外注Y(当時33才)の差し出す寿司店の領収書を見て、その金額が、奇しくもラーメンの十倍に相当するを発見するや、自ら許可した事とはいえ、外注Y(当時33才)の計算高さを見せつけられる思いで、くやしさ情けなさに沈黙するしかなかった。

このときS工程部長(当時40才)の胸の内を察したO電気係長(当時26才)は、前後の事情に鑑み、ここは自分の出番だと判断、割って入って、外注Y(当時33才)に「やっぱりまずいんでねえべかって事になってやめたんだ」と耳打ち、よくある日常の一駒とすることで、S工程部長(当時40才)をかばった。

外注Y(当時33才)は、それ以上の追求をせず、納得したように見えた。

が、しかし・・・・・・その十二年後

    

「・・・・・・オレ、ほんとうにみんなが江ノ島に行ってリフレッシュしてくればいいと思ったんだよ。」と主人はしょんぼりしてしまいました。

「あの日Sさんたち三人にやってもらってた仕事は、オレとKさんがやってたソフトのチェック作業の立ち会いで、それってラインの側に適宜立っててもらって、Kさんがソフトを動かして、何か不都合が起きたときに、機械の問題箇所にダッシュしてって異状を報告してもらう大事な仕事だから、

Sさんが言ったように『俺たちここにいてもすることないから』なんて事全然なかったよ。でもまあ暑いし、退屈だし、疲れるし、やりがいはないよな。幸いKさんは若くて元気だし、例え守備人数が減っても、Kさんとふたりで手分けして駆け回れば何とかなると踏んだから、OKしたんだ。

オレだって行きたかったよ江ノ島。だからみんながオレやKさんに気兼ねなく行けるように、特上寿司とトレードしたんだ。それなら公平な取引だろ。オレって子供のときからこういう事するから嫌われるんだなあ。

相手が期待するリアクションを、ことごとく裏切るようなリアクションするから憎しみを買うんだ。そうか、そんなに嫌われてたなんて知らなかったよ。

それなら無理してあんな大変な仕事引き受けなきゃよかったよ。はっきり『おまえがいると迷惑だ』って言ってくれればよかったのに。そしたらもっと早く手を引いてたのに・・・そしたら」

    

これはまだ主人が若く、体力もあった時代のエピソードです。この頃はまだ、普通の人たちに混じって働いていても、無理がきいてたんだなあとわかります。

それは私自身の経験に照らし合わせてもわかります。以後、加齢と共に、主人は次第に抑うつがひどくなり、紆余曲折の末、ついにアスペルガー症候群の診断にたどり着くのですが、紆余曲折を書いていたら軽く千ページを越してしまいます。

   

タイトルの「彼を会社につれてって」に相応しい話が出てくるのは、多分ここから二十ページくらい先です。このタイトル(仮)を付けたのは主人で、こうでもしてもらわないと、私には一行も書けません。

もし小学生のときにこういう先生がいて、ワープロがあれば、作文を毎回白紙で出す事もなかったでしょう。

残念ながらここで時間切れです。私は全然ですが、みなさん、どうもお疲れさまでした。(おわり)

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