2004年 7月8日 都通研第2回研修会 講演 山岸 徹
皆さんこんにちわ。
私は横浜発達クリニックでアスペルガー症候群と診断を受けた大人です。精密機械工学を専攻し職業は機械の設計をしている47才です。こちらは、私の妻でコレも又アスペルガー症候群の診断を受けています。
(美代子自己紹介)
同じアスペルガー症候群でもウイングが自閉症スペクトラムと言ったように、二人として同じ人はいません。彼女は、話すことはうまくまとめられませんが、文章にすれば何とか自身の内面を見つめられるタイプなので、赤平さんにお願いして、冊子に文章にて記すことにしました。一方私はこの人よりも話すことが得意なので、口演を担当します。
まずこの話があったときに、担当の赤平さんから、私たちを含む社会生活をしている自閉症の人は、いったいどんな支援がいるかという聞かれたのですが、私は即座に不要と言いました。
実は私が鬱病で、むりやりクリニックにつれて行かれたきも、先生が「何か困ったことはありますか」と聞いてくれたのに、即座に「ありません」と答えたのです。本当は鬱病で行ったのですから、何かよくなる薬があればこんなにいいことはないのです。ところがそれが分かっていながらも、即座にないと答えていました。
これは実は後から聞いたところによると、アスペルガー症候群の特徴らしく、何か困ったことがありますかと聞かれると、ないと答えるのが、通常の答であるようです。つまり私も、まさしくアスペルガー症候群の回答集に出てくるような回答をしていた訳です。
ではどのような支援がいるか。実は私自身、分かりません。というより自覚出来ないのです。自分がどうようなものが足りなくて、どういうことがあれば便利になるか、今どんな助けが必要なのか。実は自分の事についてはまったくわからないんです。それが自閉症の特徴なんです。
ですから具体的にどうして欲しいかという事は言えませんので、私が今日話したこと、この人が冊子に書いたことを参考にしていただいて、私や妻、そしてこどもたちにこんな支援が有効なのではないかと気が付いたら、是非そのように支援して下さい。よろしくお願い致します。
ここで、自分の事が分からないのが自閉症と言いましたが、これについてもう少し詳しく説明します。
皆さんご存知の三つ組の障害というのがあります。もちろんすでにご存知だと思いますが、
コミニュケーションの障害、 イマジネーションの障害、 社会性の障害、というものです。
ところがこれは、誰でもわかりやすいように。例えば、こどものようすが変だと思った親御さんの目安になるように、三つ組と表現しただけで、自閉症の根本原因。本質ではありません。その原因は、実はまさしくこの私達の脳味噌の中にににあります、
それはこの本に書いてありますが、IDO、EDD、SAM、TOMMというものです。これらは人工知能、簡単に言うとコンピューターですが、それを開発する上でココロはこれらIDO、EDD、SAM、TOMMの働きで作られると分かったのです。

それはこの本に書いてありますが、IDO、EDD、SAM、TOMMというものです。これらは人工知能、簡単に言うとコンピューターですが、それを開発する上でココロはこれらIDO、EDD、SAM、TOMMの働きで作られると分かったのです。
これがまさしく「ココロの理論」であり、脳味噌の構造、ロジックと言いますか脳内回路の名称なのです。この言葉を99%の人が誤解をしているのですが、ロマンチックなモノでもメンタルなものでもありません。

無機質、ロジカルなものです。しかし、自閉症を理解する上で大変重要であることは、皆さんご存知と思います。さて、自閉症はいったいどの様な状態であるかというと、このIDO、EDD、SAM、TOMMの中で特にSAMに問題がある状態なのです。
では、SAMとは何ぞ也。
例えば、ここに「さほど親しくないがよく知っている友人」がいます。彼女は入院しているお母さんの様子を毎日看ながら、会社でも働いています。「もう限界、共倒れだ」と誰彼構わず話すくらい憔悴しています。看護の甲斐なくお母さんは亡くなりました。
その後初めて彼女と顔を合わせた私は、「お母さん死んで良かったね」と言います。
もちろんその中には、「お母さんが死んでさぞ悲しかったでしょう。でもお母さんは死んでもあなたは今生きています。お母さんは死んだことであなたを看護の苦労から解放してくれたんです。そんな小さなことにでも目を向けて、元気を出して下さい。」というメッセージが込められています。
そこで、「お母さん死んで良かったね」となります。しかし言われた方は恨み骨髄。私は末代までも呪われます。

何故こんな変な事が起きるのか。
これは、まさしく私や自閉症の子供たちは、このSAMに欠陥があるからなのです。つまり、SAMに欠陥がある人類のことを自閉症と呼ぶので、逆に言えば、アスペルガー症候群や、自閉症の原因はSAMに欠陥があることなのです。
これを、アスペルガー障害と言っても、高機能自閉症と言っても、どんなに言い方を変えたとしても自閉症と言うならば必ずSAMに欠陥があり、SAMが完備した自閉症というのはあり得ません。
これは、大学教授と言えども理解していない人間がいますので、私はこの場で皆さんに直接説明出来るかと思うと本当に喜びました。最も今小中学の教師よりも、大学教授の方が多いと言うことでしたから、現場で子供に直接触れている皆さんのほうが、※だ※な※論※も※き※発※し※い※ア※バ※教※より遙かに理解出来る素地があると希望を持っています。(※部分はある教授より自分の事だと名誉毀損で訴えられ非表示を指定された部分です)
ではそのSAMとは何か。
筆者注釈:パソコン上のコマンドはSUMですが機能内容は同様です。
パソコンを例に考えます。
キーボードからデータ「1824」がまずワーキングメモリに入ります。このデータは重要ですから、ハードディスクに保存しなければなりません。
そこで、CPUはハードディスクに「1824」を書き込みなさいと命令します。昔のパソコンはノイズに弱く、しょっちゅうデータが化けていました。今度は、ハードディスクに今書き込まれた情報をもう一度呼び出します。
そのデータは、「****」です。このデータは、「1824」でなければなりません。
そこで、ちょっと冷静な自分。つまりSAMが代わりにチェックをします。「1824」から「****」を引き算すると=0つまり、うまくハードディスクに書き込みが出来ました。0でないときは、もう一度初めから繰り返します。

この一連の動作の中で行うチェックのことを、SAMチェックと言い、すべての人間。例えその子がダウン症であったとしても、生まれつき目が見えない子であっても脳内には、すこし離れて冷静に見つめる自分、つまりSAMがきちんと存在するのです。
筆者注釈:パソコン上のコマンドはSUMですが機能内容は同様です。
このSAMはありとあらゆる事をチェックしています。今説明していることは、脳味噌のハードウエアに基づいた説明です。脳内のソフトウエアで捉えれば「自己意識」と言うことになるのですが、それについては、この人が冊子上に書き表しているので研究してみて下さい。
そのSAM(自己意識)ですが人間にとって非常に重要で、ありとあらゆるところで働いています。
例えば自閉症のうえ知能の低い子は、人からどう見られるかというのは、まったく関係ありませんから、それこそ大通りの前で、おちんちんを出しておしっこしても全然平気なんです。

おしっこをしたい自分だけが存在し、人に見られて恥ずかしいという「意識」を全く自覚することがないからです。もちろん知能に応じて、社会常識という知識は増えます。ですから、知能が高くなればそれに応じて理論的なチェックを行えますから、表面的には行動に変化が見られるのです。
この事から、知能が高いのにカナー型の行動様式、手首を噛んだり、パニックと称して奇声を発したりすることは有り得ないのです。
では人とのコミニュケーションに於いて、SAMはどの様に働くでしょう。
人のコミニュケーションは、非常に高度なことを超高速で処理をしてゆきます。
先ほどの例では、私は「お母さん死んで良かったね」と言います。これは本当に本心で言った言葉で、嫌味でも皮肉でもありません。
ところが、相手に対してはすこぶる非常識、不適切な言葉です。正常な人であれば、彼女を一目見た時点で瞬時につまり0.何秒で無意識のうちに「お母さん死んで良かったね」というフレーズは省きます。
この無意識下で判別削除する能力こそがSAMの働きです。
残念ながら私のSAMの働きは、非常に悪いか或いは欠落しているので、「お母さん死んで良かったね」となるわけです。
しかし、悪いことばかりではありません。稀ではありますが、私を憎からず思っていてくれる人は、私の発言の底にある部分をも分かってくれ「率直で素直な意見」として受け入れてもくれるのです。私が現在仕事をしているのも、誰一人自閉症ということを理解した上で仕事をくれる人など居ません。
わたしは、小学校から高校3年まで、授業中に手を挙げるまでもなく答えていました。
教師が、生徒の注意を引くために
「発電器はどんな構造をしてるかというと・・」「モーターの逆!」
「そう、モーターの逆のように、コイルと・」「磁石!」
「・・・・電気には電池のようなチョ」「直流と交流!」授業はこんなやりとりで進んで行きます。高校2年私の担任である科学の授業風景です。
今考えるとさぞや先生たちはやりにくかったと思いますが、当時は真剣にこう考えていました。つまり、
「授業は先生が生徒に答を分からせる所だ。それが先生の仕事なんだから、如何に早く答えることが出来るか。それこそが先生の仕事に協力することだ」と考えていたのです。だから、どんなに先生に注意されても、先生が遠慮している位にしか考えなかったし、そこは本当の自閉症。アドバイスは知識として聞いても本当に自分のことと自覚していません。実際、考えは変わることなく、高校3年までやってました。
もちろん、知識は増えますから、嫌いな授業や嫌な教師の授業ではやりません。今思うと、好意をもった先生の授業でやっていたようです。当時の教師の顔を思い出すと、困惑の色が見て取れます。
こんな行動も、やはりSAMが無いので、「不適切な行動」として理解出来ないのです。わたしが、笑い話で話ができるのも、その当時から30年以上経ち、時間を経ることで自分の行動を観察できたからなのです。
当時は、自分自身が不適切な行動を取っていたとは露とも知りませんでした。
この様に、授業を無視して発言することは、学生だったころは確かに問題行動だったでしょう。しかし、意外なことに、社会人になってからは、大手の社長が居ようとも、大工場の工場長が同席しても思ったことは反射的に口から出てしまいます。

若い頃は生意気を絵に描いたようだったと思いますが、かえって信用され仕事を請け負いまた。逆に独立し35才を過ぎてから、初めて相手の立場だの面子を考える事を覚えたとたん、歯切れが悪くなり、ついでに景気も悪くなり、仕事も減りました。
今はやっと鬱からも脱出し、また昔に戻り、出来ない遠慮や下手な気配りはやめ、なるべく自分に正直になろうとしています。そんな私でも、使ってくれるのが今のお客さんたちで、誰一人病気を理解しているのではなく、私個人を理解しているのだと思います。
生徒の時は欠点でも、社会では利点になったのですから、人生は不思議なものです。脳の欠陥はこれだけではありません。もう一つ重大な能力が欠けています。
パソコンよりももっと原始的なコンピューター、機械の制御用コンピューターというものがあります。
よく電気釜でもエアコンでもマイコン付きなんていいますが、ここでいうマイコンというのが今言っている制御用コンピューターというものです。人間で言えば最も原始的な小脳の様な物で、比較的単純な仕事を担当します。このマイコンの場合、例えば電気釜とするとお米が炊けなかったり、火事になったりしては困るわけです。ですから、雨が降ろうと、槍が振ろうと最低お米だけは炊けなければいけない。しかし、マイコンだって時には調子が悪くなるときがあります。
そんなときはどうするか。そう言うときのために、ウオッチドックタイマと言うものを用意しています。
図のようになっています。

自閉症にはこのウオッチドッグタイマがありません。だから、ちょっと夢中になっただけですぐ3時間たっていたりします。この事を「集中力がある」などと言う場合がありますが、実際は生体からの信号を無視してしまう事さえあるのです。
例えば、私は大学時代、取得単位数が少ないからといって、集中的に勉強した時期がありました。ある日、どうも体がフラフラすると思ったら、3日間で2食しか食べていなかったり、仕事だからといって一生懸命仕事をした後、1ヶ月以上疲れがとれなかったりするのです。
つまり、生体からの危険信号さえも感じないようなのです。この夢中になる、時間感覚を喪失するというのは、こだわり行動にも反映されます。つまり、同じ事を何十回繰り返しても、途中でそろそろ止めた方がよいという信号は入りません。
ニワトリをみんな同じ方向に並べるといったような事から、自閉症と言うのは厳密にどういうことかと何十年も考え続けたり、その時間のスパンはそれぞれですが原理は同じなのです。
ここで、皆さんお馴染みの「こだわり」が出ましたので、この単語について話します。
そもそも[FIX]と言う用語を「こだわり」と訳した人に原罪があると思いますが、特にインターネット上で大発生した「なんちゃってアスペ」の連中が最も好み、そして全員がその意味を間違えて使っているのがこの「こだわり」です。
これはシェフのこだわりの一品です。とか、私はキラキラ光る物にこだわりがあります。なーんて生易しいモンじゃないものが自閉症のこだわりです。
私もこの人もこだわりは何ですか?なんて聞かれても即座に「無い」と答えます。しかし、私が或いはこの人がお互いを観察すると、どうしようもないくらい囚われている事があるのです。
そうです。この自分にはどうしようもなく、何かの考えに囚われてしまっていること、それが「こだわり」。だから、本当は「囚われ」と表現した方が適切で誤解を生まないのです。

しかし、このどうしようもない「囚われ」は時にものすごい力を発揮します。

さっきも一寸言いましたが、この本の中に絶対芸を仕込めないと言われる鳥に順番通りきちんと整列させてしまう青年の話が出てきます。動物学者が聞いたらきっと驚くと思います。
この様に、大きな力を発揮することもあるが、実は自分の力ではどうにもコントロール出来ない、囚われ状態のことこそが、「こだわり」と言う物で、ラーメン屋の親父の話とは違うことを覚えて下さい。「こだわり」は別としても「私も良く人に変なことを言ってしまって、後から気が付くからアスペです」って話も良くあります。
後からってどのくらい?2分後?2時間後?それとも2日後?
今まで私は、自分のことを話してきました。小学校時代の不適切な行動についても話しました。
では、いったいいつこの不適切な行動に気が付いたか。実は、2年ほど前自閉症カンファレンスに出席するために、担当者の方と子供時代の話をしているときに、初めて自分の行動と、回りの困惑に気が付いたのです。
他にも、別のエピソードを考えていたときに、小学5年生の時、友達のランドセルの中にあった私の下敷きは、私から盗んだ物だったことに気が付いたのです。その時、私は「永嶋君、おれの下敷き見付けてくれたの?サンキュウー」と言って彼のランドセルから引き抜いたのです。
私達の「後から気が付く」の、後と言うのは本当に長ーい時間を要することで、一般に言われる「後から気が付く」のレベルでは無いのです。

さらにSAMが欠落していると、自分の心、つまり心的自己を知ることが出来ません。
この人は、半年ぐらい何度も何度も私に同じ質問を繰り返していました。
「テレビ好き?」 「別に。」「何でそんなに一生懸命見てるの?」 「強いて言えば面白いから」
「何で釣りするの?」 「面白いから」「好きなの?」 「別に、好きって訳じゃあないなあ」
「今の仕事どお?」 「面白いよ」「じゃあ、好き」 「仕事が好きなわけ無いじゃん」
その他ありとあらゆる事を、質問の仕方を変えながら私に聞いていました。その結果確かに私は「面白い」と言うレベルまでは認識できても、「好き」と言うレベルを認識出来ないのです。
「嫌い」も同様ですから、何とも嫌な感じを持ちながらもむりやり仕事をしていると、突然「嫌い」が、朝起きれないと言う形で出ます。昨日まで元気だったのに、突然起きれなくなり、何時間でも何日でも寝続けるのです。
この人の観察によると、これは積極的な疲労からの回避措置だと言います。たしかに、そんなときはそのまま少し時間をあけてくれるお客さんは、今でも続いていますがそんなときに無理をさらに要求するお客さんとは、続いていません。
自分で「ココロ」が無いと言うのは、釈然としませんがこのように事実を突きつけられると認めるしかありません。
「SAM」が無いことで、自分の気持ちすら守ることが出来ないのです。
ここまではSAMの欠陥(どうも欠落と言った方がいいようなのですが)、それを原因とした障害でした。
次はもう一つの大きな障害について説明します。それは、
「概念」と言うものが自閉症には分からないと言うことです。
宇宙人は概念です。ミスタースポックは宇宙人ですがその中の固有名詞です。人間は概念ですが、裸の大将は固有名詞です。

「良い子と言われたから、良い子を演じていた」と言うことは自閉症には不可能です。自閉症には「良い子」という概念が理解出来ないのです。だから、「良い子にしてね」なーんていう指導は無意味です。いったいどんなことが良い子と言うことか分からないからです。しかし、「だまれ!」というのはすぐ分かります。これは概念ではなく、黙るという明確な行為を示しているからです。
こう考えると、通常の言葉の中、特に母親が子供に投げかける言葉は、概念ばかりであることに気が付きます。母親ばかりではなく、教師も同様だと思います。それを具体的な指示、明確な表現を心掛けることは、意外にも自分自身の物の考えを見つめることにもなります。
自閉症の研究者たちが、哲学的な意味合いまで考え出すのはこの辺に原因があるのでしょうか。
私達が、冊子の原稿を書くにしても、口演原稿をまとめるにしても、サブタイトルを決めて、それに応じて原稿を書いていく事は出来ません。医師が聞く「困ったこと」も概念ですから、やっぱり本当のところは分かりません。サブタイトルをまとめることは「概念」を持つことが出来なければ出来ないので。私達はとにかく片っ端から言いたいこと、書きたいことを書いて行き、その中で今回の演目に合致、ふさわしいことを選び出していきます。
今回のこの冊子などにも、意外に時間と力が入っていることも一寸分かって下さい。これからが皆さんの本当の守備範囲、教育について話します。
今、概念が分からないと話しました。作文は概念を共有した上で自分を表現するわけですから、概念を理解出来なければ、何処へ行った。とか、何があった。とかの事実を書くしかありません。如何に概念と言うものが重要であるか分かると思います。さらに、算数の文章問題も概念を理解し、前提条件を丸飲み出来なければ問題を解く作業に入れません。斯くの如く「概念が分からない」とは不自由なものです。
しかし、最近は自閉症の子供たちを対象にした教育システムも開発されてきています。それでも、
情報の断片を聞きかじり我流の教育がまかり通っているのも事実です。
最近ではフジテレビがスーパーニュースで、追い続けている湘南ライナス学園という学校があります。この学校はLD,ADHD、アスペルガー障害のこどもの教育をするというのが売りで、それをフジテレビがレポートしていて、その授業風景も映し出されました。で、その授業風景を見ると、多分どこかで、自閉症は視覚で考えるとどこかで聞きかじったのでしょう、手にチューリップの植木鉢を持ち上げて、突然算数の文章問題を実演します。「ここに二つのチューリップの鉢があります。この鉢の中には球根が三つ植わっていてその球根には葉っぱが何枚出ていて、なんとかかんとか、どうのこうのと、先生が問題を両手に球根の鉢を持ちながら説明していました。
わたしも妻も このチューリップが、と両手で先生がチューリップの鉢を持ち上げた時点で、もう話の内容はちんぷんかんぷんで、算数の問題どころではなく、発狂しそうでした。
ちなみに、数学と無縁の人は別としても、私は算数の点数だけで進学した口です。ですからもう小学生の頃から得意中の得意で、一番最初に、文章問題の一番難しいところを解いて、そのあといやいや計算問題を解くという口でした。しかしライナス学園でやっている文章題の問題の出し方を見ると、とてもわたしには理解できません。
それで、ここで実は用語について説明しますと、
視覚で考えるというのは、現物をみなければならないという事ではないんです。
ですからチューリップの文章問題が出てきたとしても、何もそこにチューリップが植わった植木鉢を持ってくることはないんです。逆にその植木鉢を持ってきたことで、混乱を増やしているだけなんです。
この辺もインターネットの情報で、だれかが誤解した情報を、まことしやかに受け売りで話すというのが、蔓延しているので、ここの部分はよく注意して聞いて下さい。
例えばこういう事です。400リットルの水槽があります。水の出口は毎分20リットル流れ出ます。ここに水を毎分35リットルで入れると何分後に一杯になるでしょう。
こういう問題が必ずあります。これは皆さんよく知ってると思います。もしこんな問題があるとすると、ここにいるこの人はこう考えるそうです。
水槽っていうと、あそこの社宅の上にあるのが水槽だと聞いたことがある。あれのことかなあ。でもあれは下から水が出るところなんか無いぞ?そうこう考えるうちに、下から水がジャージャー出ていて、上から水を入れるって?大体なぜ下から水が漏れてるのに、上から水を入れなきゃならないのだろう。
下から水が出ているところに、上から水をいれるバカはいないだろう。下の水を止めてからいれるのが当たり前だろう。
とこう考えるそうなんです。まあ、こう説明出来るのも、質問を受けてから30年も経ち、そのころの状況を冷静にあたかも他人のことのように見ることが出来たから言えるだけで、もちろん質問を解いているときは、文章を見たとたん頭の中は言葉では言い表せないモノで充満し、気が付くと終了時間が来ている、といったような状態だったそうです。それを今思い返すとどうもさっきのような説明が出来るのではないかと言うことでした。
またもうひとつこういう例を出します。ここに時速80キロで走る電車があります。こちらから60キロで走る電車が来ます。では何分後にこの二両はすれ違うでしょう。とこういう問題があります。これもよくあるでしょう。そうするとこの人はこう考えるそうです。
一体だれがなぜこんなことを知りたいのだろう。つまりここでとにかく算数の問題なので、そんな事は置いといてという事ができない。
もう頭の中でこっちから電車が来る、こっちを見ると電車が来る。またこっちを見るともう直前、ぶつかるー。じゃないですけど算数の問題を解くということから、頭の中で映像が好き勝手に走り回っている状態になるそうです。
このように視覚で考えている。
確かに視覚です。パラパラ漫画、ヴィデオテープのように、映画のように物語を頭の中で作って考えるというのが、自閉症と言われています。
それに向かって。頭の中に、そのような豊かなイメージがある自閉症に向かって、鉢植えを出したらどうでしょう。
頭の中にあった鉢植えはマンガで見たチューリップの絵。ところが手で持たれたのは、素焼きの茶色の鉢で本物です。
平面のちゃちなマンガのチューリップが頭の中にあるのに、こっちは本当にリアルチューリップ。あっちは簡単なのに、こっちは大きい花と小さい花のような蕾のような。これは花と呼ぶべきか、花ではないと考えるべきか。もう気が取られてしまってまったく考える余地がありません。いい大人の私自身、ライナスの授業で、その現物を見せられて混乱して話を最後まで聞けません。
私の場合は、逆にチューリップがなくて普通の文章題で出してくれたほうが、よっぽど質問が解きやすいし、彼女だってそんな現物があることで、より情報量が多いが故に、混乱ばかりで数学の問題を解けるような状況下にないという事が、テレビを見ながら二人とも発狂したことからわかります。これが現実に診断を受けた私達大人の意見です、
ま、ここでその湘南ライナスの先生がいて、いやあなたたちがいってるのがまちがいで、ライナスのやり方のほうが、本当だといわれるならきっとそうなんでしょう。
ただ私達が湘南で受けたら授業を受けたら落第生以外の何者でもありません。つまり私達が行くべき学校ではありません。たった一つの能力がライナスでは奪われてしまうのです。
アスペルガー症候群の子供を教えるという標榜していながらも、残念ながら、私達アスペルガー症候群の大人は行くべき学校ではない。もちろん子供も。
これにみなさん何か疑問を感じる事はないでしょうか。私は大変疑問に思います。
私が小学4年生になった年。ですから、昭和41年4月私が行っていた北海道の小学校では教室を2つ増築し、特殊学級が作られました。大阪の小学校でも、横浜の小学校でも特殊学級はありませんでしたから、多分昭和41年が特殊学級教育が始まった年だと思います。ただ、文京区に居たこの人は違うような気がすると言っています。
まあ、それはさておき、とにかく知能指数で線引きをして、特殊学級教育が始まりました。そして、昭和43年私が自分が自閉症だと自覚したドキュメンタリー、「太鼓と少年」がNHKで放映されました。海外の自閉症研究から見ても、多分日本でマスコミに自閉症が出た初めての番組だったと思います。それまでは、誰も自閉症の事は知りませんでした。きっと、特殊学級の先生たちも知らなかったと思います。
そんな時代から、徐々に自閉症の事は知られるようになり、また実際に自閉症に触れた先生も多くなってきました。
そんな、専門家の中からどうも知能指数で区切ってもどうやら自閉症はダウン症などの子たちと違う。さらに、どうも知能が低い子だけでなく、知能が高くても自閉症がいるようだ。となってきました。
さらに、自閉症研究が進んだ国では、どうも自閉症だけは他の子供たちと考え方を分けた方が良い。違う教育方法を採った方が良いようだ。という流れ、社会的な流れが出来てきて、日本でもようやくそう言うことが認知されつつあったのですが、ここ二三年、急にそれが一挙に壊れ、まあ日本で使われているLDは、厳密に海外で使われているLDとは違い、知恵遅れをひとまとめにしてLDという人が多いのですが、
そのLDもADHDも、自閉症も、一緒に教えるのがいいことだ、と文部省もそう言っているようですが、そういう風潮に突然なりました。で、それを実際しているのがライナス学園。ところが私達はライナス学園で教えていることが理解できない。そうなると、この文部省の方針味噌クソ一緒のこの方針で、もし事が進んだら、犠牲になるのは誰でしょうか。それはやっぱりそのグループの中でも毛色の違う自閉症の子供です。
せっかく自閉症とそれ以外という、区別が出来つつあったのに、また、一緒に教育させることを要求される。ま教師のみなさん、さらには、みなさんここに来ていらっしゃる方々は多分、理解が深い方たちだと思いますが、現実に、ついこの間まで、TVでやってた光とともにというマンガを見ればわかりますが、あの中でも、やはりある程度知恵遅れのこどもたちの教育に実績のある、教育者が、実は自閉症の教育というものを、他のこどもたちとのギャップに悩むということが、光とともにの、何巻かは忘れましたが、そのそういう場面が象徴的に本の中でも描かれています。
実際これは事実だと思います。
私達もこういう自分たちがそうだからかも知れませんが、そういう知恵遅れの子供たちを主題とするドキュメンタリー番組などは、よく見ています。
そのときに見ていると、ダウン症のこどもたちや、知恵遅れのこどもたちは、先生をぱっとなごませたり、笑わせたり、仕草が妙にかわいかったり、ああこういう子たちはかわいいなと思います。しかしその中に、ひとりぽつねんといる自閉症の子を見ると、やっぱり異質だなとつくづく思います。

実際私なんかが仕事をしている訳ですが、私がしている仕事というのは、もう仕事はつらいものだ、ということを前提にやっています。つらいのは当たり前だと。
でつらい仕事をやっているわけですから、別に他の人を楽しませようとか、そんなことは一切考えません。もちろん仕事をしている以上、息抜きは必要ですから、休憩時間を定期的にとるとかは気配りはしますけど、何かそのとき一緒に仕事をしているグループの中で険悪な雰囲気が出ていたとすると、それを和ませて、うまく仕事をはかどらせようとか言う配慮はしません。しないし、なんていうかそんな考え自体が浮かびません。
なぜかというとこれは、まさしく、その場にいても、自分がいまいる場が険悪なのか、それとも、強力してがんがんやってるのか、どうもそういう事を察知することができない。その察知できないことが自閉症なんですね。
こどもたちも私も同様です。こどもたちがそれぞれ養護学校、授産施設などで、友達や先生といやな雰囲気になった。そのときに何とかみんなをなごませよう、そういう知恵が一切働かない。
そこが何かとっつきにくい、氷のような冷たさ。多分みなさん現実に自閉症のこどもたちにふれている皆さんであれば、言っている意味がわかると思います。
まあよくマスコミなどで、文部省がバカなことをやってるとか、TVで田原総一郎が文部省はけしからんとかよく怒ってますが、そんな酷いことするのかなあ程度に考えていましたが、いざ自分と仲間の自閉症が当事者になるこういう話が出てくると、ほんとに文部省はバカなんだなあと思いました。
まあ皆さんはどう思うかは知りませんが、私はただひとりでも、この事は反対していきたい。それはあまりにこどもたちがかわいそうだからです。自閉症のこどもたちがかわいそうだからです。
最後に、診断を受けることにどう思うかと今回のスタッフの斉藤さんに聞かれました。
親の中には、理解できる年になってから知らせてやりたいと言う人が居るそうです。
私は正確で、診断の能力のある医師であれば、より早く診断を受けるべきだと思います。この人も同じ意見です。
特に、この人は私よりも強固な意見を持っています。先ほど説明しましたが、私達にはSAMが無かったり、あるいは「概念」が理解出来なかったりします。
ところが、自閉症であれば、作文を書くときにも、「概念」が理解できず事実しか書けないという特性を犠牲にして、ニセモノの概念もどきを、自分自身に嘘をついて作文に書かなければいけません。つまり、概念を持たないのに、どこからか概念らしきモノのフレーズを真似、心にも無いことを、つまり嘘を本当として作文に仕上げなければならないのです。
無いSAMをあるように振る舞うことを強要されるのです。
これは、本当に苦痛であり、アイデンティティの崩壊でもあるのです。ですから、それをこの人は学校教育の中で、普通のおとなしい子供として生活してきたことで、今ここで、アスペルガー症候群と診断を受け、本当の自分自身を見つけても、やはり、昔の強い教育が残っていますから。
アスペルガー症候群と言うこと自体も、危うくなるそうです。
私の意見はこうです。私達は、明らかに脳の状態が普通の人たちと違います。私はずっとおねしょに悩み、便秘に悩み、おねしょは中学2年でもしたことがあります。
この人は、下痢に悩み毎日水のような便ばかりしていたそうです。
これらは、実は脳機能薬の投薬を受ければ嘘のように改善します。
それも、私の場合大人にも関わらず、幼児並。普通の大人の10分の1の量で劇的に効果がありました。
尤も、何年も連続服用しているので、最近は通常の半分ぐらいの量迄増えています。こんな事からも正確な診断は本当に必要なのです。
しかし、正確な診断は4才児を過ぎなければ本当の所は分かりません。その前に安易に判定する医者や、心理士には注意して下さい。
今日はこんなところでどうでしょうか