自閉症と発達障害研究の進歩 2004 Vol.8
〈特集〉コミュニケーション
高木隆郎/P.ハウリン/E.フォンボン編 星和書店刊

当事者の声〈Ⅷ〉 切れないスイッチ
「赤い靴を履いて踊り続ける女の子」。夫は私を、アンデルセン童話「赤いくつ」の主人公カーレンになぞらえます。女の子と言うには薹が立ち過ぎていますが、よく言ったもので、私は何かひとつのことに夢中になると、自分で自分のスイッチが切れなくなってしまいます。その夢中になりようは、どうやら世間で言われるところの、趣味の範疇を逸脱しているらしいのですが、そもそも私に趣味などありません。
例えば、20代の頃、思い立って13ヶ月で空手の黒帯を取りました。会社帰りに一日も休まず道場に通い、男性に混じり、ボクシングジムの練習にも匹敵すると言われた、ハードな稽古をこなし、試合に入賞し、次々に飛び級し、有段者となりました。
しかしその最中に「あなたの趣味は何ですか」と問われれば、「別に取り立ててありませんが……強いて言えば読書でしょうか」などと答えたことでしょうし、「将来は道場でも開くんですか」と冗談を言われれば困惑し、「まさか」と否定したことでしょう。
では私にとって空手とは何だったのでしょうか? 私はこれこそが世に言うアスペルガー症候群の「こだわり」の私版だったのだと、ようやく気付きました。
さて同じペースで二段を取った時、さすがの私も苦しくなりましたが、やめようにも自分ではスイッチが切れません。ひたすら修業の毎日でした。途中で母が寝込んだりしましたが、それすらスイッチを切るまでには至りませんでした。ただこれを契機に、実家近くに転職することを決心し、6年間勤めた会社を辞めました。何の未練もありませんでした。
履歴書に女が空手二段と書くことは、時として、お茶やお華よりインパクトがあります。いくつかの会社が興味を持ってくれ、そうやって転職した会社で、私は夫と出会いました。夫は私の馬鹿げた空手修業の話を聞くなり「異常だ!」と言って声をあげて笑いました。そして「きっと自閉症だ!」と言いました。なぜに私が自閉症?もとい、なぜわかった!?
それは、自分は小学5年のとき、TVのドキュメンタリーを見て自閉症だと気が付いた。全国あちこち転校して歩いたが、あのTVの男の子以来、こんなに自分とそっくりな人間に出会ったのは初めてだ。よってあなたも自閉症である、という強引な三段論法でした。
私は彼に興味を持ち、その瞬間、バチッとスイッチが切れました。私の空手に対する「こだわり」は、跡形もなく消え去りました。こんなおもしろい男、逃してなるものか、と思ったのです。よく自閉症の人の恋愛は、相手をモノとしてしか見ないと言われますが、もしこれがそうなら、その通りだと認めざるを得ません。タカラモノです。
27歳で結婚して、再び転職しました。生活のためです。夫は会社員生活に見切りをつけ独立しました。持って生まれた、超高機能三次元コンピューターグラフィックスを生かした機械の設計で、そこそこ顧客がついておりました。一方私はハイヒールを履いて踊り続け、その姿はコマネズミに例えられました。部署をあちこち異動させられました。「あなたの他に適任者がいますか? AさんやBさん、Cさんに任せられますか? どう考えてもあの人たちの能力では無理でしょう」
私は疲れ果て、1日も早く定年が来ることを祈りましたが、見事祈りが通じてしまい、その日はあまりに突然、何の前触れもなくやって来ました。私が39歳のときでした。
YOU ARE DOWNSIZED. リストラです。私は不意を突かれて怒り狂いました。
社長を呼び出し、罵詈雑言を浴びせかけました。私のデスクには、上司とのダブル不倫がバレてクビになったはずのCさんが、ちゃっかり座っておりました。Aさんたちは「私たちは何も知りませんし、お答えする義務もありません」と冷たく電話を切りました。
夫は憤慨し、せめて「手切れ金」は取るべきだと、方法を詳しく伝授してくれました。私はその通りに行動し、満額を手にしてやっと会社を去りましたが、あの会社に定年まで勤めるという私の「こだわり」は、お金では切れませんでした。スイッチが一時停止のままとなり、その後何年もつらい悪夢に悩まされました。
そうこうしているうちに、私の大切なタカラモノが壊れました。動かなくなり、音が出なくなったのです。何とか直そうとおなかを押すと「オレなんかクズだ、カスだ、カス犬だ」と小さな声で鳴きました。カス犬……この子犬の生まれ育った家庭での、これが呼び名でありました。子犬のおもちゃの内部は時を経て、錆びだらけになっていたのです。
それから、私がどんな靴を履いて踊っていたのか、未だにわかりません。あっちを突っ掛け、こっちを突っかけ、左右を逆に履き違え、涙で転んで靴が脱げ、裸足で駆け出しては、取りに戻る。そんな感じでしょうか。あまりに濃密な期間であり、問題がパラレル状に同時進行し、かつ絡み合っておりました。破れかぶれで子犬のブリーダーとその周辺、半径数百キロ圏内を爆破し、人間関係を壊滅状態にした後、焼け跡に「アスペルガー症候群」という、光り輝く結晶を見つけ出した、驚きと喜び。(そうだ、有名な児童精神科に持って行って修理してもらおう。ついでにあたしも直してもらおう。十年だって待とう)。
2000年12月、よこはま発達クリニックにて、33年前に自分は自閉症だと気付いた小学5年生は、アスペルガー症候群との診断を受けました。私はうれしさのあまり、道路の真ん中でぴょんぴょん飛び上がってしまいました。その後ごく少量の抗うつ剤を処方された夫は、ほとんど一夜にして、元気になってしまいました。オーバーホールされたのです。アスペルガー症候群そのものは治療できなくても、二次障害は打つ手があったのでした。私はこれで、もういつ死んでもいい、思い残すことはない、とさえ思いました。
それなのに夫は、「オレがアスペルガー症候群だとわかってよかったねぇ」とまるで他人事のよう。夫の言い分はこうです。「何度も言ってるけど、自分は自閉症である。そんなわかりきったことを何故喜ばなくてはいけないのか。自分が抱えている諸問題は、この生物学的な特性に由来しており、現代医学をもってしても回復困難である。ただし、二次障害であるうつ病は、薬でコントロールできることが今回初めてわかった。さらにうつ病の原因として、幼少期に遡る、家庭でのイジメや無理解によるストレスも大きかった。特異的に発達した画像処理能力が幼児期の恐怖を倍加した。しかし気持ちのリセットはできた。これらの作業と適切な医療機関の選定は、自分一人ではできなかったことであり感謝する。主治医の処方を守り、勝手にやめることなど断じてない。薬の助けなしに仕事を続けるのは困難だし、生活を維持できないからだ。メシの支度はよろしく頼む」
ポーズではありません。そもそもポーズなどという言葉とは無縁の男です。
夫の診断から半年後、慎重の上にも慎重を重ねて、私の診断が下りました。アスペルガー症候群にAD/HDが合併。初めて出会ったときの夫の言葉通りでした。発達歴に関しては、客観性重視の厳格なもので、いわゆる私の思い出話の類は一切不要とされ、両親の同席を打診されて迷いました。80歳過ぎてなお、冴え冴えとした思考を保つ老人ふたりではありますが、「おおイヤだ、そんなおかしなの、うちの家系にはいないはずなんだけどねえ」と顔見合わせるご当人たちが、実は家系一おかしいヒトたち、というタイプであり、事情を一から説明し説得する気力も能力もなく、結局代わりに、長年起居を共にしている夫が、その任に当たりました。夫は「ホラ言ってたじゃない。オチンチンはいくつになったら生えてくるのって、会う人ごとにしつこく聞いて、お母さんを困らせたって」と、アスペルガー症候群全開の人であり、赤面しつつもその点は大いに助かりました。
しかし困ったことが起こりました。診断を受けてなお、私のスイッチが切れないのです。
何のスイッチかと言えば、私の人生最古のこだわりである「自分が自閉症だという証拠集め」のです。正式な診断名がついたというのに、さらに証拠が必要とは?
実を申しますと、夫に指摘されるまでもなく、私も子どもの頃から、自分が自閉症であるという信念を抱き続けておりました。しかしながら、その根拠は、夫のように明快なものではありません。夫はビデオのない時代、TVの男の子の一挙手、一投足を、自分の頭の中で繰り返し繰り返し見て、自分が自閉症だと確信しました。そこまで明快なら、誰が何と言おうと「自分は自閉症」なのです。それに引き替え、私はと言えば、「まあおとなしくてお人形さんみたい」と会う人ごとに異口同音に言われたことや、保育の専門家である保母の「それにしても少しおとなしすぎて心配です」といったほのめかしに、女の子は手が掛からなくて楽だと思い込んでいた母が、仰天したという話、そういった状況証拠のみです。
ですから私の「こだわり」は、いつしか「自閉症ではない証拠集め」のほうに移行していきました。そのほうが、手っ取り早く効率的だったのです。なにしろカナー型と比べれば一目瞭然、私が自閉症ではないとわかります。ところが、そうやっていくらカナー型の情報を、集めても集めても、スイッチは切れてくれませんでした。
そんな折りも折り、「2歳まで歩かず、言葉もなかった。4歳の頃は、目覚まし時計を分解し、取り出した小さな歯車を、日がな一日くるくる回すのがお気に入りの遊びだった」などというカナー型もどきの夫が登場し、試しに手持ちカードを交換してみると、その 〃どれをとっても同じじゃないが、何から何までそっくり同じ〃 加減に圧倒されました。その後の不本意なリストラ、続く夫のうつ病発症でぐらぐらに揺さぶられ、ついに自閉症研究の長足の進歩がもたらした「アスペルガー症候群」の存在を知り、もはや私が自閉症だという証拠は出揃ったと、満を持して診断を受けたのに、スイッチが切れない。
……結局のところ、私は年を取りすぎたのです。わずか20年とはいえ、社会の荒波にゴシゴシ揉まれ、様々な人たちを見て参りました。その中には「なぜこの人に病名が付かないのか」と思うほどエキセントリックな人、怒りっぽくヒステリックな人、嘘つきなのになぜか大人気の人、はたまた無口でおとなしく、いつもビクビクと人の言うなりで「自閉症じゃなかろうか」と思えば、根回しよろしく、要求は難なく呑ませてしまうちゃっかり屋、といった人々がいて、それらの人々にしても、前出のABCさんたちにしても、私や夫と決定的に違うのは……人によって巾はありますが、いずれの人たちも「頭を切り換え」て「ほどほどのところで」「あきらめて譲る」「柔軟性」を持っていたことです。どれほど破天荒に見えても、収拾を考えています。押さえるべきところは、寸止めで押さえています。だからこそ、会社という集団で、生き残ってこられたのだと、今思います。
いつか私のような人に会ってみたいという未練はあります。それでスイッチが切れないのでしょう。しかし、社会での苦行の年月は、私を極度に用心深くしてしまいました。例えば、アスペルガー症候群の大人たちで組織される、自助グループといった中に、アスペルガー版のABCさんたちが、いたとしたらどうでしょう。そうなれば私は「どこに行っても同じだ」とばかり、診断名をかなぐり捨ててしまいたくなるかもしれません。しかしそんなことできないのは自分が一番よく知っています。その時のすさまじい葛藤。「私には到底無理だ」、これが限りある私の想像力が出した結論です。
アスペルガー症候群の診断名は、私の障害の証であり、自分のルーツを知る唯一の手掛かり、アイデンティティー、さらには夫との生活の質を保つための大切な道具です。アクセサリーではありません。夫はこう言いました、「つまり銀の食器って訳だね」。
私はこの無二の親友を大切に、ほんの少々の抗不安剤で赤い靴の暴走を止めながら、高望みをせず、ひっそりと生きていこうと思っております。 (山岸美代子)
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