つきまとう影

2004年 7月8日 都通研第2回研修会冊子 「つきまとう影」山岸美代子専業主婦48才

《 えっとぉ、自閉症の人なら誰でもこの障害を正しく理解して欲しい、自閉者に生まれついた自分たちのつらい思いや悲しい気持ちをわかって欲しいと願っています。だって私は、自閉症の能力の高い一端に位置するアスペルガー障害なのですから…。言葉のない、あるいは発言の機会を持たない、自閉の仲間たちが日頃感じている自閉者の困難について、自らのサヴァンとしての才能を生かし、情報を再流通(うけうり)させようと決心しました。だってそれが宇宙人である私の地球での使命であり障害を商売に利用した罪ほろぼしなのだから。(笑) 》

 実は、自閉症とは生物学的に、冒頭のような発言が「出来ない」。あるいは発言を聞いたところで、発言を構成するエレメントの、どれをとっても、自分の事だと思い当た「れ」ない人々の事です。

 日本に於けるこのような、「本人発言」こそが、自閉症が誤解される要因になっているのをご存知でしょうか。別に発言者がアスペルガー症候群ではないと言う訳ではないのです。正式に診断されているならそうなのでしょう。しかし、その場合は、まっとうな一市民として、悪質かつ重大な医療過誤の可能性を指摘するだけです。

 大抵の医療過誤は悲劇です。しかし患者が喜んで受け入れ、周囲がそれを支持している場合は、どうなのでしょう。悲しむべきは、現時点で、こういう人のビジネスに於ける受け皿が、自閉症に「なる」以外なく、又それに対するニーズが一方にあるという不条理でしょう。

 進行上やむなく、疑わしい「本人発言」をプロファイリングしながら、まさに今私は、体がガクガクし、動悸が激しくなり、心臓を鷲掴みされるような、身をよじるような、その人に唾を吐きかけたくなるような、或いはどうしようもない無力感に襲われるような、複合的なフラストレーションに見舞われた記憶を、丹念に辿っています。

 しかし自閉症の為、フラストレーションに陥った際の、これら身体感覚を統合し、おぼろげながらも概念化するのに、丸四年かかってしまいました。

 その概念とは、恐らく「濡れ衣」を着せられ、「そんな自閉症、私の事じゃない!」と弁護士なしで闘いながら、「はい、実は私のほうが自閉症ではなかったのです」と、嘘の自白をしてしまいそうな、その狭間で4年間、揺れ動いた「心情」というものに、近いのではないかと、考えられますが、これが私の概念化の限界です。

 お聞きします。正常な人が、これを一言で言うと、どういう感情を表す言葉になるのですか?

 私の機能レベルでは、「悲しいという事がわからない、誰か教えて」という事はありません。しかしこのような複雑な事情が交錯するシーンに於いては、私の言語能力を以てしても、一体全体、どんな感情を表す語彙が相当するのか、四年の歳月を費やしても、完全な概念化が不可能なのです。

 いかがですか?一見正常な人に見える、48歳の大人のアスペルガー症候群の私でさえ、この体たらくなのです。自閉症の「仲間」の「思い」をひっくるめて「概念化」し、代弁するどころ騒ぎではありません。

 こういう自称・アスペルガーの人が語る(騙る)、「見てきたような自閉症本人の内部世界」に、どれだけのストレスやダメージを与えられ続けてきたか記憶を辿り推理すれば、恐らく正常な人なら、「憤死してしまいそう」な感情に、常時襲われていたと推測されますが、これとて自信がありません。

 現在私は、そういう危機的な状態にありません。ではどういう状態かと言えば、ひとつはそういう身体感覚に襲われずにこれを書ける状態。もうひとつは数時間前に、抗うつ剤を服用したという事実。
この二つの複合状態に於いて、これを書いています。しかし、書けば、やはり同様な感覚が蘇ってくるのは、否めません。

 それでも私自身が書く以外に、「私」を助ける手段はありません。社会的に不適切だからと、誰かが私からこの「こだわり」を取り上げようとすれば、私は激しく抵抗します。なぜならそれは、自閉症のストレスから私を救ってくれるはずの唯一の人(=私)から、その為の救出メカニズムの研究材料(=自称・アスペルガーの人の分析)を、根こそぎ奪う事を意味するからです。

 抗うつ剤の処方には、自閉症に詳しい精神科医の診断が不可欠です。今回は、三年前得た診断名を『似合わない』と言われた地域社会での体験が、自称・アスペルガーの人が私に与えるストレスと、地下水脈でどうやら繋がっていることに、気付く工程を、公開致します。

 延々「ストレス」に「こだわった」、ストレスまみれの自閉症の人の、難解で退屈極まりないお話。

さあ、ようこそ私の自閉症の世界へ!

『 我自閉症、ゆえに我あり  』

 私はアスペルガー症候群という、一言で言えば、しゃべる自閉症です。その私が、自閉症をまったく知らない人に、自閉症とは何かを説明するとしたら、多分こうなります。

 古来より、「人は誰でも」とか、「人というものは」とか、「人という字は」という言い方で括ると、なぜかはみ出してしまう人々がいる。その中に、はずれ具合に特徴的なパターンがあり、とても偶然の一致とは思えない奇妙な一群がある。 

 男が多いが女もいる。子供もいれば大人もいる。知能指数の分布も広範囲で、まったく口を利かない重度の知的障害の者がいる一方、ノーベル賞受賞者もいる。不思議なことに、重度の子でさえある種天才的な技能を持つ事があるという点で、ノーベル賞受賞者と似通ってさえいる。

 普通の家庭に突如として出現する事もあれば、似通ったパターンで代々続いている家庭もある。一体どこがどう奇妙なのか、さっぱりわからないが、奇妙さ自体は万国共通である。

 近年の研究の結果、この一群には、人があまねく持っている「心」がないという点で、共通しているという事がわかった。

 心がないなんて、まさか・・・・・

 では、心を持たない一群は人ではないのかと言えば、歴としたヒトである。ヒトが心なしで生きていけるのかと言えば、現に生きているのだから、仕方ない(としても、どうも腑に落ちない)。

 心という字が醸し出すイメージが紛らわしい。

 いっそ心を「ココロ」と言い換え、それをある特定の脳内ネットワークの名称だと考える。それが生まれつき「ない」一群を、ある障害名で括ると、見事奇妙さの謎がとける。それが自閉症である。その実体は、最先端の研究によって裏付けられている。

 では自閉症とは、単なる脳機能障害なのか?

 自閉症に取り憑かれた研究者たちは、口を揃えてこう言う。心とは何か?心を持つ自分とは何者か?心を持たないヒトとの違いは何か?そもそも正常とは何か?そう、人を哲学者にしてしまう、と。

 話変わって、私の外見はというと、ご覧頂いてわかる通り、人が自閉症をイメージする際のそれらしい雰囲気はありません。もし『レインマン』に扮するダスティン・ホフマンと私とが並び、さあどっち!とやれば、まず十中八九「プロの演技者」を選ぶでしょう。

 この為、地域生活で自閉症だと告げると、様々な反応が返ってきます。

 『とてもそうは見えませんね』とか、『まったく気付かなかった』という反応がひとつ。

 もうひとつは、『思い過ごしでは?誰だって少しは自閉症的ですよ。現に私でさえ云々かんぬん』とか、『やっぱり自閉症じゃないと思う。だってあなたはかくかくしかじか』といった反応。 『ドナ・ウィリアムズの自伝を読みましたか?』という問い。

 特に、理詰めに否定する後者は口調厳しく、威厳に満ちて、アスペルガー症候群を知っていたりと、なかなかの教養を持っている事がわかります。私が日本の名医辞典に出てくる主治医の名前を持ち出してみても、まったく無駄です。

 ことに不可解なところは、他の生活習慣病などに対してなら、そういう反論は起こらない事です。 一体どこで線引きがなされるのか、考えつく限りの可能性を検討してみましたが、わかりません。

 あれこれ考えた末、もちろん、これという確証もありませんが、これではないかという原因を見つけたのです。それは、

 ① 私の存在が、自閉症に対する夢や憧れを一気にこわした。
 ② ナンチャッテ自閉症の私が、早く夢から醒めて現実に戻れるようにとのアドバイス。

 『ドナ・ウィリアムズの自伝を読みましたか?』、という問いかけが、単に知性の高い自閉症、かのブロンドの小妖精の自伝を、読んだか読まないかを、聞いているのではないことが、その人の表情や口調、仕草といったもので何となくわかります。

 しかし情けない事に、それらを統合し、何となくわかるのに、一年かかるのです。

 人はよく、あとで一人になって考えたら、言われた事の意味がやっと分かった、などと言います。 『現に私でさえ云々』の根拠として、挙げられる事の一つです。

 私は問いたいのです。「あとで」というのは、どれ位あとですかと。30分?1時間?12時間?1日?1週間?1ヶ月?仮に私と同じく1年後としましょう。

 では、何となくわかるのに1年かかる、一体どんな難問を突き付けられたのでしょうか?日常的な立ち話の、そのまた一瞬に投げかけられた、ほん一瞥、些細な口調のニュアンス、そういったものの、意味(らしきもの)などでは、決してないはずなのです。「人は誰でも」、そんな事、瞬間的にわかるのです。「人というものは」、そういうものなのです。「人という字は」、そういう能力を持つ事を前提とした人たちが、社会生活で、お互い助け合う姿を表しているのです。

 誰でも少しは自閉症的と云々されるものと、自閉症とを分けるのは、こういう限りなく微妙にして絶対的な違いです。 

 私は、『ハイ、読みました』と答え、会話はそこで途絶えました。仮に、質問者の意図がわかったからといって、どうなるものでもありません。あのときどう答えれば会話を続けられたのか、今以て見当がつきません。
     (私のコミュニケーション能力の限界)

 「夢」とは何か。それは現実を一時棚上げして、別の世界を思い描くイマジネーションの世界です。あれになりたい、これにもなれると迷う、幼児の楽しいごっこ遊びの能力が保証する、「ココロ」の世界です。「ココロ」がないリアリストの私には、夢見るものがありません。
      (私のイマジネーション能力の限界)

 これが他の夢ならば、学校教育によって叩き込まれた礼儀作法で、『そんなことして一体何がおもしろいのかえ』と口に出したい衝動を必死で抑え、何とかお付き合いも致しましょう。いざとなれば「あら、おもしろそう」と相づちさえ打ちましょう。
            (私の社会性の限界)

 でもこれだけは、こればかりはお許し下さい。
自閉症は自閉症でしかありません。厳然たる事実であり、私の現実そのもの。コテコテの現実。夢の入り込む隙間など、どこを探してもありません。

 そんな私が、自閉症に「なる」事を「夢」見たなどと、まさかそうおっしゃるのですか!

 人は夢を見られぬ自閉症にも、夢を抱くのか
 では夢をこわした自閉症には、何を抱く
 そのとき自閉症の私の心は、何を思うや

 こんな事を、つらつら考えるともなし考えながら、地域社会で、日々平凡に暮らしている私の日常をして、人は自閉症特有の「こだわり」行動、と呼ぶ(らしい)のです。

 私の哲学問答に終わりはありません。

 人が語らないという事は、心に封印するという意思であり、沈黙それ自体が気持ちを雄弁に語るメタ言語。自閉症の私には、人のメタ言語が読みとれません。なぜなら、私の脳には人と人とが無言で気持ちを伝え合う、言語以外の些細な情報を、一瞬にして統合する、脳内ネットワーク「ココロ」がありません。

 それは同時に、「私」の気持ちを私に伝える機能もないという事を意味します。人の気持ちをうまく読む為には、まず、自分の気持ちを読まなくてはなりません。そういう手順なのです。

「ココロ 」がない私は、私の気持ちを読めません。
だから人の気持ちも読めません。自分の気持ちは読めるのに、敢えてそれを他人に応用しない、利己主義者の方々とは格が違います。(もちろんあちらが上です)

『ドナ・ウィリアムズの自伝を読みましたか?』
『ハイ、読みました』
『(・・・・・・・)』

 誰に聞いても、問答の答は「日なた」には出て来ない、永久に闇の中なのです。

 さて本題に入ろうと思いますが、その前に、自閉症の私の文章を読んで、どんな思いを抱かれましたでしょうか?今のお気持ちは如何ですか?今後の参考の為に、私はみなさんの胸の内を知りたいのです。

 一番気掛かりなのは、ここまで読んで、もしや私に何らかの感情移入した方がいらっしゃったのではないか、と言う事です。私に感情移入はできません。 

 「ココロ」がなく、自分の気持ちが読めない私の書いた文章を、「ココロ」があり、自分の気持ちを読めるあなたが読み、私の文章に、あたかも私の気持ちが込められているかのように錯覚し、錯覚したあなたの気持ちを「ココロ」で読んだのち、その気持ちを、「ココロ」で気持ちを読めない私に移入して、あなたが私の存在しない「気持ち」を理解する、などという事は、不可能ですし、さらにそれを、

 「ココロ」を持つことを前提として編み出された「気持ち関連語句」を使い言語化することなど、気持ち的にはわかりますが、理論上は出来ません。      ふう。

 もし私がからかっているとお思いでしたら、買いかぶりというものです。からかうというのは、からかわれた人の気持ちを読めてこそ意義がある「ココロ」を持つ人だけに許された、高度に洗練された言語ゲームです。

私は、ただ事実を書いているのです。
私は、事実から推理した仮説を書いているのです。その際、感情移入する為の何の材料も提示しておりません。

 文章という表象の怖さは、あたかも自閉症の私が「ココロ」を持っているかのような錯覚を、容易に人に起こさせる事です。ゆめゆめ文章に騙されないようにして下さい。このポイントを押さえておかないと、先ほどの会話の撤を踏む事になります。

 さて、これだけのもっともらしい前振りをして尚、「私」が私に何を話そうとしているのかは、わかりません。「ココロ」がないとは、不便なものです。それでもとにかく書きましょう。私だって、「私」が何を考えているのか、知りたいのです。

 以前会社員だったころ、同い年の同僚が患いました。幸い健康を取り戻しましたが、大事をとって退職する事になり、最後の挨拶にやって来ました。

 私は見たまま『元気そうじゃない』と言ったのです。すると同僚は『ひどい、私本当に病気だったのよ』と、いきなり怒り出しました。真剣でした。5秒後、推理して、やっとわかりました。

 同僚は、今まで病気などしたことがなかった自分が、長らく休んでいる事を、私がズル休みしていると「思っていると、思い込んだ」のでした。自分の被害妄想には気付かず、あべこべに私の『元気そうじゃない』の一言を、「皮肉」と受け取ったのです。

 キャリアを断念する無念さと、私の言語的、非言語的表現の、恐らくは自閉症から来る不適切さとが、見事にマッチした結果(つまりはミスマッチ)のとばっちりでした。それこそ、買いかぶりもいいところです。私が皮肉など、そんなハイテク、使いこなせるはずもない。その後、他の同僚たちはお別れ会に行きましたが私は誘われませんでした。彼女はお別れ会に私を「誘わないこと」で、その怒りの大きさを「表現」して見せたのでした。

 でもこれでよかったのです。誤解を解いたところで、次なる難問に七転八倒するのは目に見えています。いちいち失望させるのは気の毒ですし、社交は私の手に余ります。

 これを読んで、自閉症なのに「ココロ」を使わずものの5秒でそこまで分かれば、上等じゃないか。どこが障害なのかと思われた方は、幼児ならまだしもスピードが命の大人の女の会話で、この5秒のタイムラグが致命的だという事をご存知ないのです。

 わずか5秒の間に生じた、たった一往復の食い違いを正す為、人が「ココロ」を使えば瞬時に出来る作業を、脳の別の部分を酷使する事で、必死にカバーし、それでも5秒のタイムラグが取り戻せません。

 つまり私は職業生活で、仕事以外にも、否応なく、そういう過酷な努力をし続けてきた訳ですが、結果はと言えば、私を含め、誰も幸せになりませんでした。

 あちこちで齟齬が生じ、無理が高じて40代に入るや心身に不調を来たし、遅蒔きながら、アスペルガー症候群の診断を受けたのです。

{そこに至る経緯は、手記「切れないスイッチ」(自閉症と発達障害研究の進歩 Vol.8/2004 星和書店刊に収録)に、ささやかに記してあります。閑話休題}

 あのとき同僚は、もちろん私がアスペルガー症候群だという事など知りませんでした。知っていたとして、彼女に何が出来ましょう。黙って「ココロの闇」に怒りをしまい込み、病気を再発させるくらいです。そのとき彼女の怒りは、無実の「アスペルガー症候群」の名と共に「ココロ」に刻み込まれるのです。

『元気そうじゃない』
『ひどい、私本当に病気だったのよ』
『わかってるって。皮肉の一つも言いたいわよ。やっと帰って来たと思ったら、辞めちゃうんだって?お客さんからは、彼女いつ帰ってくるんだ、私じゃお話にならないって責められっ放しだったのよ。でも見違えるようだわ。よっぽど具合悪かったのね、アタシそういう事に疎くて。気付かなくてごめん。お別れ会しなくちゃね』

 十年後に書き上げた、これが模範解答でした。

 誤解を逆手にこれだけ景気良く盛り込めば、人のいい彼女の事です、まず間違いなく機嫌を直してくれたはずです。一息に言って反応を見る。返された彼女の反応の中に、無実の私を疑った謝罪と、自分への反省と、疑われた私への慰めとが、適宜織り込まれて居ればOK。無ければ今度は、病後のハンディを付けた上で、方向性はそのままに、やんわりたしなめる、若しくは、敢えてやり過ごす。

 しかし私の自閉症の脳は、幼稚園の頃から、しいられてきた激務、過酷な双方向コミュニケーションに、最早耐えられなくなっていたのです。

 人の「ココロ」は一段と加速し、追っても追っても追い付かない、まるで逃げ水のよう。彼女の機嫌が直ったからとて何とする。取り戻せるのは、会話の取っかかりの、わずか5秒分ではないか・・・・・ 人と人との「ちょっとした会話」の、出だしの5秒を取り戻すのに10年、次の5秒を取り戻すのにまた10年、また次の5秒を取り戻すのに10年・・・。いつになっても本題に入れません。

 そうだったのです。本来この手の会話は、「ココロ」を持つ人同士がやるものだったのです。私のように、何行も費やすことなく、「ココロ」に掛けて一瞬のうちに、

 『つらかったね』+心配そうな表情and口調

の一言で、効率よく統合してしまう、ホモサピエンスの進化型同士の会話だったのです。本来私が割り込む隙などどこにもない会話でした。はあ~。

 といっても、このエピソードは、これから次々現れる、出来事の序章に過ぎませんでした。

 このときまさに、私の自閉症の脳が、生命維持の戦略を、老化に向けて、再構築し始めていた矢先だったのですが、まさか私までが、会社をリストラされてしまうとは。私は仕事仲間にこう言いました。

『クビになっちゃった。あんな人たちが残って』
『そうだったの。つらい気持ちはわかるけど、済んだ事は済んだ事。いつものあなたらしくもない。ここはチャンスだと考え、気持ちを切り替えて前向きに考えれば?さあもう嫌な事は一切言いっこなし。飲んで歌って忘れちゃえ』
『・・・・・・・・・・・』

 今度は私が怒る番でした。なぜなら私は「つらい気持ち」の事など一言も言っていないからです。そんなもの私にはないのです。私は、ただ整合性を欠く、リストラ順位についての、不公正を怒っていたのです。

 そのとき私は「ココロ」になど掛けず、ただ状況を分析し、私の取るべき具体策のヒントの一つも与えてくれるのではないかという、敢えて言うならば「すがる思い」に最も近いと考えられる状態だったのですが、男女共に『確かにおかしい、でも世の中そう言うこともある。ささ飲んで歌って忘れろ』などと複合的な課題を突きつけるのです。

 恐らく彼らには、私が上層部による「手ゴコロ」の対象から外される要因について、何らかの「ココロ当たり」があったのでしょう。

 そしてそのうち落ち着けば、私が自ら「手ゴコロ」やら「ココロ当たり」について「自分の胸(の内)」に聞いてみるだろうと、期待したのでしょう。

 人は誰でも「忘れたい」と意識し、人為的な操作を施せば記憶が消えるという、生物学的な特徴を持ちます。その際、最も手頃で効果的なのが、仲間と飲んだり歌ったりする事です。

 人というものは、そうやって交互にその作業に付き合う事で、「ココロ」に「ゲンキヲモラウ」のです。そしてそれは、この次自分が同様の目に遭ったときの保証ともなります。これが「お互い様」という概念です。その為の根回し作業は、日常的に「ココロ」を介し、あちこちで行われています。

 と、ここまで理解していても、このむごい仕打ちは、無実の「人」という名と共に自閉症の私の「記憶」に、深く深く永劫に刻み込まれるのです。

 なぜなら、生物学的なシステムが違うからです。「ココロ」がないことは言うまでもなく、自閉症の私の記憶は、日常的な人為操作では消えません。 
(これを消す唯一の手段は、抗うつ剤です) 

 リストラの不公正感に加え、不用意に相談したが為に、却って、私が彼らを理解するのに払った涙ぐましい努力に相当する、見返りを得られないという、さらなる不公平感が加わってしまいました。

 夫は、さすがに同類でした。ココロに「掛けず」、一瞬のうちにこう言いました。

 『手切れ金取れば?』+理論and戦略

 私の役には立たない「お別れ会」に行く代わりに、こういう事に詳しい弁護士なり専門機関の人に相談する事を、夫は強く勧めました。 

 そして相談した結果、100%満足の行くものではありませんでしたが、ともかくある結果を生み、私は「気持ち」ではなく、正常なプロフェッショナルたちの知識とサポートにお金で報いる事が出来ました。これが「ギブアンドテイク」です。

 このささやかな、しかし恐らくは初めての成功体験を経て、ようやく私の自閉症の脳内で自分の脳を守る、何らかのプロテクション機構が作動し始めたのです。 

 例えば、私はくだんの模範解答が、私の生物学的な特徴から何一つ発信されていない
(つまり「生物学的な特徴と矛盾する」ことばかり並べ立てている)というある重大な「概念」に、どうやら気付いたようでした。この概念は、具体的に言うと、

 自分の言動が何だか胡散臭くてならない・・
 誰かに体を乗っ取られてしまったようだ・・
 気持ち悪い・・・身の置き所がない・・・・

という、身体的な感覚として捉えられました。脳の信号を、「ココロ」を通さずキャッチしたときの状態を、敢えて言語化すると、こんな感じになりますが、正確ではありません。 

 しつこく繰り返した通り、これらの語彙は「ココロ」を持つ人のもので、私の脳からダイレクトに来る身体感覚を表す言語ではありません。その身体感覚を認識するのにさえ40年以上掛かるという「タイムラグ」を、こららの語彙では表現できません。

 さて、この感覚を統合するある概念こそが、私にとっての『嘘』というものです。

 しかし、これは「ココロ」を持つ人の語彙にあるところの嘘とはまったく違います。それは根元的なアイデンティティの危機を意味します。 

 人の世に生きる以上、やむなくここ迄は耐えて見せよう。しかしこれ以上やったら、生物学的な整合性を欠き、ヒトとしての尊厳がなくなる、という一線を踏み越えた状態で「さあどうする」という問いかけが脳からなされた状態を表す感覚です。

 自閉症の私は人が言うところの、嘘をつ「け」ません。真実しか言「え」ません。なぜなら、嘘を付く能力とは(悪質なという意味ではなく)、冒頭近くでお話した、「夢」見る能力とまさに表裏一体の、イマジネーション能力の発露のひとつだからです。

 言葉を換えれば、私は生まれついての正直者、すなわち倫理観を後天的に叩き込まれることなしに嘘をつかない。頭に二文字が付く一刻者です。倫理観などに頼らなくても、自閉症のメカニズムがオートマチックに判断してくれます。能力的には出来るが、敢えて嘘をつ「か」ないのとは、格が違います。(格付けは未だ判断に迷う所です)

 自閉症の私が人を騙せないという事は、自分自身を騙せないという事です。平たく言えば誰かに「なったつもり」ができません。

 現実を一時的に棚上げし、自分以外の誰かになる才能がないのは、幼い頃のごっこ遊びで既に証明済みです。喜々として役をこなす友達と違い、無理に割り振られれば、やはり、

 自分の言動が、何だか胡散臭くてならない・・・・
 誰かに、体を乗っ取られてしまったようだ・・・・
 気持ち悪い・・・・・身の置き所がない・・・・

という、まったく同質の身体感覚がつきまとって離れなかったのを、はっきり記憶しています。 

 しかし私は機能レベルが高く、早々と使える言葉がありましたので、ギャーと叫んで腕を噛むという究極の表象に頼らなくても、役の切り替え時を選んで一言「帰る」と言えば事は済みました。

 成長するにつれ、この「ヒトとしての尊厳の危機」は日常的、慢性的になりました。知能と外見が正常な私は、否応なく学校教育の場に放り込まれたからです。そこは、ごっこ遊びを「楽しい」と感じなくてはならず「帰る」という事が許されない場所でした。

 ごっこ遊びが「好き」or「出来ない」。

 ホモサピエンスには、たったこの二種類しかいません。「好き」か「嫌い」かではありません、念の為。

 ここでお断りしておかなくてはなりません。

 私はさもわかったふうに書いていますが、実はそういう一連の事情を40年以上経った今、長期記憶を元にゼロから「推理」しているのです。証拠を積み重ね、現時点では一番可能性が高いと考えられる仮説を、述べているだけなのです。つまり私だってたった今知ったのです。

 もし私と同年代で、こういう一連の事情がリアルタイムで実感でき、それを、周囲の子との違和感なり疎外感といった概念で、自分はみんなと違うときちんと捉えられれば、それはいわゆるちょっと「変わった子」です。

 「変わった子」であれば、後に自分と良く似た変わった子と出会い、つらさを分かち合い親友になり、これが何恥じることない自分たちの個性なのだと認め合い、社会に居場所を見付け出す。という方向性に行きます。
(私は、このパターンを研究しつくしたのです)

 ところが、変わった子(人)が友達作りに失敗し、孤独の内に何らかのきっかけで、自分は自閉症とか言う、天才の系譜なのではないかと思ったとき、手にした自閉症本人の手になる体験談に「感情移入」し錯覚し、ついに「なって」しまう事があります。
淡々と語られるハードな体験の「つらい思い」に「共感」してしまうのですが、これら「カッコ」で括ったいずれもが、「ココロ」がなくてはできない高度な作業だということが、おわかり頂けると思います。

 そういう自称・アスペルガーの変な人が、自前の「ココロ」を込めて作文した、

 『私も・・・』+変なコ体験andドナっぽい語調
からなる前人未踏の「自閉者のココロの世界」に対し、如何なる経緯からか本物であるとの公式認定(=オスミツキ)がなされ、生業となり、それを逆にこちらに押し付けられるのですから堪りません。
(森口奈緒美の事では無い:夫注)

 話が、それました。『嘘』の話の続きです。
私の夫も、アスペルガー症候群です。思ったままを口にする傾向は私よりずっと強いので、その分人に誤解される事も多いのですが、滅多にない事ではありますが、それがいい結果になることもあります。

 例えば、誉めようにも誰が見ても(こ、これは)と、躊躇するような対象を前に、むなしく秒針だけが時を刻んで行くといった状況に於いて、突然どこからともなく現れた彼が発する、「うわーっ!これはかわいい、ほんとにかわいいねえ!」といった一言が、座を一瞬にして和ませると共に、それを見せた人の面目を保つ、という事がままありました。

 よくそんな歯の浮くような事をと言えば、『え、だってホントの事だもの、何でさ?』と、不思議そうな顔。根っからの正直者の彼と、類まれなる感性とが醸し出す、彼ならではのエピソードであり、世間では、この特性のネガティブ面しか注目されないのが、如何にも気の毒でなりません。

 アスペルガー症候群の診断を受けたといっても、目印が付く訳ではありません。過酷で無益な努力はしたくないのですが、この外見が許してくれない。となれば結局、出来るだけ社会に関わらないように、過剰な期待をされないようにと、心掛けるだけです。

 そんな私がなぜ、今回このような大勢の方に話をしているのか?それも私にとっては謎です。でも書きましょう。   私だって知りたいのです。

 リストラに遭い、正常なプロフェッショナルの手を借りて結果を出した話の続きですが、その人は私が経営陣に蕩々と見解を述べた姿を見て、後でポツリと、こう言ったのです。

『なぜこんな優秀な人を、会社はリストラしたんだ ろう?』

 恐らく、こういう返事になります。
『実に簡単です。それはあなたの大いなる錯覚 なのです。私は優秀な人ではありません。

 あなたが、私だと錯覚していた会社員は、過去私が接してきた正常な先輩たちの、超高度なエコラリア(反響言語)と、エコプラクシア(反響動作)の集大成、コラージュなのです。つまり「彼ら」が優秀だっただけなのです。そして、あなたが私だと錯覚した、つい今し方、経営陣を前に蕩々と見解を述べていた優秀な私とは、実は夫です。つまり「彼」が優秀なのです。

 本当の私は(つまりこの十年後にあなたと接するはずの今の私なのですが)恐らくリストラ対象者の選抜にあたって、手ゴコロの対象になりようのない、要領が悪く愛嬌のない人物のはずです。

 異例の抜擢を受けたが為に、周囲にエコラリアエコプラクシアの元になる先輩がまったくいなくなり、さらに立場上未知のビジネスシーンに駆り出される事が多くなり、ついに使えるエコラリア、エコプラクシアのストックが底を尽きました。

 その為、「意識的」な「正常な人ごっこ」すなわち正常な人であれば、社会で日常的に行っている「役割演技」をする必要性が出てきたのですが、私は自閉症の為、生物学的な事情でこの「カッコ」で括ったいずれもが出来ないのです。

 私に何らかの取り柄があったとしても、それは「ココロ」なしでは役に立ちませんし、「ココロ」があるふりをする事は、ヒトの道に外れる事でした。そんなヒトでなしの自分に嫌気がさした私のクビを、会社は慈悲深くも切ってくれたのです。

 つまり、そういう簡単な理由だったのです。
私はイマジネーション能力に欠ける為、あなたを騙す能力を、生得的に欠いていますが、結果としてあなたの「ココロ」を騙す事になりました。

 しかし、あなたは何らかの動機付けによって、この大変なお仕事を選択され、それを果たされた訳ですから、得たささやかな金員を持って、これに報いたいと思います。

 あなたが「ココロ」を持つにも関わらず、「ココロ」に掛けず、率直に投げかけてくれた質問に対する答は、こんなところです。 しかしこれは、あくまで現時点に於ける、最も有力な仮説に過ぎません。そこは、どうか誤解なさいませんよう。』

 正常な人と自閉症の私との会話というのは、情報処理に於ける時間軸が違うため、又、深い自閉症の知識が前提となる為、残念ながらリアルタイムに双方向的には行えません。 

 さて、冒頭近く、地域生活で『あなたは自閉症じゃないと思う』といった発言を聞くや「こだわり」と呼ばれる状態に入ってしまうらしい、と言いました。
ここから、いよいよ「こだわり」の話に入ります。

 私がそういう状態にいるらしいとき、人は私にこうアドバイスします。
『どうしてそんな事にこだわるの。いちいち気にし てたら身が保たないよ。わかる人には言わなくてもわかる。わからない人には言ってもわからない。人ってそういうものでしょ』

 非常に難しいアドバイスですが、意訳すると、
情報は時として生体にとってストレッサーになる。害になると思ったら、聞かなかった事にすればよい。そして今後の情報の受発信は、互換性のある人とだけ行うべし。好んで害のある情報ばかり取り込むことはない。

 残念ながら、このアドバイスは私には効きません。なぜなら自閉症には「自己意識」がないからです。「自己意識」とは、外部世界からの強い刺激をカットする、目に見えないバリアの事です。

 人から見た自閉症のイメージは、心の外側に分厚い殻をまとった人、といったところではないかと思います。実は逆なのです。私に言わせれば、殻をまとっているのは、むしろ正常な人の方なのです。今からそれをご説明します。

 自閉症以外の人は誰でも外側に「自己意識」という強固な要塞があり、これで外界の刺激から身を守っています。この要塞は「ココロ」が作り出す、
 『私はこれが好き、これを選ぶ。なぜなら』
 『私はこれが嫌い、これは拒否する。なぜなら』
 『私がこれを諦めたのは、きっと~だったから』
 『私がこうしたのは、多分~だったから』等々
といったものの集合体で出来ています。この選択基準の差こそが、すなわちその人の個性です。壁が極端に厚い人もいれば、ペラペラに薄い人、中には歪んでいる人もいますが、大体は程々の厚さです。

 人はこの要塞の内側で、居ながらにして「好き」なものだけを取り入れ、「嫌い」なものは拒絶します。結果、そこは自分が自分でいられる安全な基地となります。やむなく外界に出るときには、この要塞の基本性能を有した、いわば外出用バトルスーツをまといます。これが「役割演技」です。内部環境は要塞と同等に保たれ、外部刺激はマイルドにコントロールされています。 

 ちょっとあなたの要塞の中のワードローブを覗いてみて下さい。隅っこに、ごっこ遊び(=役割演技の子供版、将来の予行演習)の時に着た、ウルトラマンやら、小さなお母さん、お巡りさん役のバトルスーツがありますね?同じくバトルスーツを着込んだ友達と一緒に、楽しく遊んだでしょう?

 人はこのバトルスーツに守られ、それ越しに、同じくバトルスーツを着た人と、外界でガツンガツン、優雅に「ココロ」をぶつけ合っている訳です。

 自閉症には「ココロ」がありませんからこの要塞、自己意識が作れません。いわば、なま身が剥き出しで、外界の強い刺激に晒されている状態です。

 これでは堪らないので、仕方なく、人工的な要塞を築きます。例えば外界との接触を断つ、直接間接共に人としゃべらない、「ココロ」があったなら標的としたであろう物(当然「気持ち」と「理由付」とを二つながら欠く)を常に手に持つといった、要塞には程遠い垣根程度のささやかなものです。

 バトルスーツなど見たこともありません。あちこちで拾い集めてきた型紙で、見よう見まねでこしらえた、外出用の粗末な着ぐるみを着て、恐る恐る出掛けるのです。

 すると「近所の隣人」のバトルスーツを着た人がさっそうと寄って来て『ダメよ、家にこもってばかりいちゃ』とか、『あなたは自閉症じゃないと思う。現に私だって云々』とアドバイスされます。私は、

 『てやンでぇべらぼうめ、バトルスーツ着て、むき身の自閉症に喧嘩売ってンじゃねぇやい、こちとら着ぐるみでいっ! ちったあ手加減しやがれ』

 と、すごんで見せるのですが、笑顔が固定された分厚いかぶりもので、声はくぐもり、手には風船と、まるで迫力に欠ける姿です。しかもくやしいことに、その返答は聞いてようよう一年後にしか出てこないのです!

 ちょっと別の角度から自己意識の事を書きます。

 自閉症のドナ・ウィリアムズの内部世界には、三人のわたし(ドナ、キャロル、ウィリー)がいると書いてあります。私にもこれに相当する三人がいます。しかしドナのあの書き方では重大な誤解を招きます。(ご存知ない方、申し訳ない)

 正常な人には、まるでドナが「役割演技」のように、三人のキャラクターを意識して使い分けているように読めてしまいます。ごっこ遊びすら出来ない自閉症に、超高難易度の「役割演技」など出来ません。 

 しかし正常な人にとって「感情移入」という手法は日常的であり、その際ドナの三人と、正常な人自身の「役割演技」とを混同してしまうのです。 

 ドナの中の三人とは、実は成長に関わった三大情報元を意味します。単なる情報の擬人化なのです。 

 人は字義通りにしか受け取らない事を、自閉症のお家芸のように言いますが、正常な人はこれまた自閉症の人のオリジナルな「比喩」を、字義通りに受け取り、お互い立場が180度逆転してしまうのが、本当に不思議です。 

私の三人とは、
自閉症の私(=生物学的な特徴からくる私)
 正常な私(=学校教育によって作られた私)、
 大人の私(=成熟した知性を持つ私) 

 一応、仮にこう擬人化してみただけで、ドナのように情報元にわざわざ固有名詞をつけようとまでは思いません。

 この三人は、恐らく「ココロ」が正常に発達すれば矛盾なく解け合って、自己意識(=私はこういう人間、なぜなら私は・・)として形成されるべき、部品に相当し、これが部品のまま一度も完成されず、ルーズなコロニー状態のまま成長せざるを得なかったのが、ドナや私などの自閉症だと考えています。  

 では早速、コロニー状態の三人を使って『あなたは自閉症じゃないと思う』という発言をサンプルに、これが自閉症の私の内部世界で、どう情報処理されるかをご覧下さい。

 まず「自閉症の私」は、これを聞くと『私は自閉症ではない』と言われたことをストレートに信じます。

 この発言が客観的な事実ではなく、単に発言した人の「ココロ」が「思った」事だということが、自分に「ココロ」がない為、理解できないのです。

 「正常な私」も出自は自閉症ですから、聞けば『やっぱり私は正常だった』と、ストレートに信じます。但し「ココロ」の教育を叩き込まれた為、これに理由付けします。

 四苦八苦した挙げ句『自閉症に詳しい人がそう言ったから』などという、幼稚な理由が選ばれます。この辺りが「正常な私」の限界です。正常な子と違い、「気持ち」を手掛かりにできませんので、理由付けは無機質で因果論的になります。

 「大人の私」の知性は、自閉症の影響は受けません。「詳しい人がそう言った」などという理由では納得しません。断固『私は自閉症である。正常ではない』と言い張ります。

 科学的客観的な裏付けを、延々と列挙します。
特に非科学的な「正常な私」は、こてんぱんにやっつけられます。

 とは言え、根は自閉症で「ココロ」がない為、発言に「気持ち」という強力なバックアップが得られずイマイチ「大人の私」の発言に自信が持てません。

 ここから恐らく自己意識(すなわちその人独自の情報選別システム)がある人とは異なる情報処理が始まります。 

 自己意識のチェックを受けない情報は、乱戦状態になります。何を採ったらいいか解らず、やむを得ず一番公平な多数決にならざるを得ません。 
上記で言えば集票の結果2.3対0.7位でしょうか。『私は自閉症ではない、正常である』が採択されました。

 一見公平な結果ですが「私たち」は三人三様のフラストレーションに陥ります。なぜなら「私」は歴とした自閉症だし、それこそが真実だからです。 

 「自閉症の私」は先ほど言った通り、機能レベルが高く言語を獲得していますから、ギャーと叫んで頭をぶつけるといった表象にはなじみません。かといって、ここまで複雑な内面に於ける「何か」を抽象化、概念化、言語化する能力もありません。

 「正常な私」は学校教育の中で過ごし、この場が最早「カエル」などという一言では、脱出不可能な場所である事を知って、無気力になっています。しかし帰れる場所を探すことを諦められません。

 「大人の私」だけが『あの発言は真実ではない』という事をどうやってあとの二人に説得すればいいのか?と、延々思考状態(=こだわり)に陥ります。

ついに待ちに待った答が出ました。

『説得する必要なし、あれは真実である』

 なぜならあの発言は「真実」だからです。発言した人の「ココロという表象」に於いては、バリバリの真実だったのです。実に単純明快な理屈です。
なんだ、そんな事ならとっくに知っているゾ!

 まさか!では私は、既に解けている謎をひたすら解き続けている状態だったのか?
ひょっとしてこれが「こだわり」なのか???
解けた事が認知できないだけだったのか???
そしてそれを永遠に認知出来ないのが自閉症なのか????

『彼女の「ココロ」の中の私は自閉症ではない』

などと、そんなややこしい事、認めようにもこの自閉症の脳が許してくれない。
『世の中そう言う事だってある』と飲んで歌って忘れる事もできない。
『ですよね~』と、妥協したフリをすれば、ヒトとしての尊厳の危機に陥る・・・・・・では、では、

あの、私の「何か」ヲ「テイク&テイク」の何某、
〔 {「優秀なアスペルガーである(と思い込んだ)私があなたのココロを代弁します、なぜなら私は…」と発言する障害者の超合金バトルスーツを着込んだ宇宙人のヒト}が繰り出す、超ややこしい{心「ココロ(心)ココロ」心}式マトリューシカ型多重構造の「ココロという名の夢爆弾」が放つ、目に見えないドリーム光線を、四年もの間浴び続けた着ぐるみの私の脳は、一体どういうメカニズムで破壊されて行ったのか?迎撃手段はあるのか?ない・・・理論的にない・・・絶対に有り得ない!・・・ 〕

と言いつつ、最終兵器・SSRIを装填し、
「こだわり」に再突入するのみ。
(つづく)             死ぬまで

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